眞野丘秋 / Takaaki MANO

 

 私は日本の滋賀県という、自然豊かな田舎町で生まれた。祖父は詩や文学、哲学を嗜む人だった。父は高校の美術教師で、学校で美術を教える傍ら、専門である日本画を追求していた。母は声楽家で、大学で音楽を教えていた。このように、私は自然と芸術に囲まれた環境で育った。

 私は少し、風変わりな子だった。しばしば意識が瞑想状態へと入っていき、見ている世界がぼやけてしまうのだ。時折、怖くなったのを覚えている。また、目に見えている世界と一体化した感覚があり、全ては神の現れであると認識していた。この世を摩訶不思議なもののように思っていたが、その一方、たびたび至福感に満たされる日々だった。そんなユニークな感覚も、普通の学校教育を受けている間に薄れてきて、いつしか「神はいない」と思うようになった。物質主義的で、唯物的な人間になってしまったのだ。

 そして、地元の進学高校に入学してからは、日本の学校教育に嫌気がさし、ほとんど勉強をしなくなった。大学へ進学するという選択肢はなく、高校を卒業するのがやっとだった。私は卒業後、「どうやって生きていけばいいのか?」という難問に直面した。

 とりあえず滋賀という田舎町から飛び出て、京都で暮らし始めた。会社に就職することは頭の片隅にもなかったので、日雇いのアルバイトを転々とした。だが、どれだけ当面の仕事にありつけても、心が満たされることはなかった。一日の仕事が終わったら「なぜ生きているのだろう?」という諦めとも似た後悔の念にかられ、焦燥感ばかりが募った。

 次第に、陽が沈むと歓楽街で酒を飲み歩く日々が続き、その土地で何人もの路上音楽家に出会った。彼らが演奏する姿を見た時、私は背中に稲妻が走ったような衝撃を受けた。彼らから自由と生命力の躍動を感じた。私はすぐに音楽家達と親しくなり、私もその街で、毎晩朝まで歌うようになった。それからは音楽家だけでなく、芸術家達とも親交を深め、音楽ライブや数々の展覧会に足を運ぶようになった。そんな生活を1年ほど続けた頃、何か空虚なものを感じるようになった。「真実を知りたい」そんな思いが沸々と湧いてきて、再び焦燥感にかられるようになった。ちょうどその時、音楽家の友人がネパールの旅から帰国したところで、目を輝かせてその国の素晴らしさを語った。彼の話を聞いていると、私は突き動かされるような衝動にかられ、次の週にはネパールへと飛び立った。19歳だった。

 

 ネパールには大自然があり、素朴な田園風景が広がり、私の心は癒された。だが、やはり「真実」への希求は強く、私は毎日のように聖地とされる寺院に通い、ヨーギ(ヨーガ行者)達と話し込んだ。ある日私は、突然神秘体験を経験した。それは後に「クンダリーニ昇華」と呼ばれる現象だと分かった。私の意識は二元性を超え、神と一体化していた。あれほど唯物的な意識の持ち主だった私が、再び幼少の頃のように、神を見出したのだ。魂は永遠であることも、目に見える全ては神の現れだということも改めて理解した。至福感に包まれ、流れゆく雲は虹色だった。私は「ようやく悟った!」と有頂天になり、すぐに日本に帰国した。

 だが、ここからさらに困難に直面することになった。至福感は3週間程で消え、苦しみや痛みなどを感じる、「普通の」意識状態に戻ってしまった。しかしネパールで得た悟りの感覚はそのままだった。即ち私は、目覚めた状態で俗世を生きることになった。「この未発達な社会で、私はどうやって生きていけばいいの?」私は混乱し、過度のストレスから重度のうつ病に陥り、寝たきりになってしまった。

 あらゆる絶望の後、1年半ぶりに起き上がった私は、リハビリをする日々の中で、また沸々と衝動が湧き起こってきた。「私がまだ生きていることを証明したい」という強い思いだ。私は重い体を引きずりながら、毎日絵を描き、写真を撮り、文章を書いた。自分の存在を何らかの形で表現したかったのだ。

 それから、地元・滋賀のグループ展に参加し、滋賀で個展を開き、写真集や自伝、小説やエッセイを出版し、その後、活動の場は日本全国、世界各国へと広がっていった。

 

 今では、私は、アートを通して自分を表現するということだけでなく、世界の平和を常に希求している。私のアートは、絵画であれ文芸作品であれ、誰かに愛と気付きと祝福を提供するものだ。自分にできることは限られているが、少しでも多くの人が、愛を基盤にして行動することを望んでいる。この大きな変容の時代、地球が無事、楽園へとシフトし、世界人類すべての人が笑って過ごせる日が到来することを願っている。